幼稚園時代からの友達と気張らずに会えた。
多分再会しだした高校生くらいからずっとしっかりした自分を見せないといけないし、相手が高度なことをしているから少しでも私もそんな雰囲気を出さねばとか思っていた。
でも、相手はそんなこと求めてないだろうし、人間って対等っていうのを読んでから、相手を異常に高く上げずにフラットな気持ちで会おうという心構えができた。
そんな気持ちで会ってみて、すごい楽だったし、友達のこと好きだなと思った。
素直になるのは楽だなと思ったよ。
ガチガチに心を作り上げて否定されるのを恐れなくても大丈夫だと気づけた。
それよりも、適度な境界線を作って否定的な言葉がきても客観的に見れる位置に入れることが大切だった。
わりと全員に嫉妬してた。
人のことを褒めるけど、それと同時にいつも「私は出来ていない」と自己否定をしていたのでしんどかった。
褒める時は対等というより、自分を下げて相手を上にする褒め方だったからしんどかった。
相手から褒められてもそんなんだからうまく受け止められなかった。
いつしか、羨望は嫉妬に変わっていたな。
でも、さっきと同じで対等という考えと境界線を持ち合わせるようになると、自分に関して正しい認知ができるようになって嫉妬は少なくなっていった。
それと併せて、自分ができていないことが浮き彫りになるからほんの少しづつだけど羨望を感じたほうに近づけるようになった。
探求心があるよね
読書していたり、話を聞いていて「どうして」を追求するのが面白いと感じるんだよね。
これは誰にでも備わっているわけではないと気づいた。
これは私の強みとして扱っていいし、今までより強く意識してこれを携えていろんなことに取り組んでいこう。
根本で幸せになってはいけないという気持ちがあるな
ACを少しづつ克服して、やりたいことが見つかりかけている今「私みたいな子がもう現れないように」って思いが膨らみすぎて、楽しい方から離れている。
別にこう考えるのは悪ではないけど、今こういう方向に行くと自己存在を肯定するための拠り所にして依存しそうだなと直感が語る。
むろん助けたい気持ちもあるけどさ、自己が確立されてない今やることではない気がする。
今すると自分がわからなくなりそうだ。
本当に心の底から幸せになっていいなんて思えないんだよな。
なんでだろう。
自分が存在していいことに何にも自信が持てんのよな。
今自尊心を調べてて、今までの私の成功目標は「家族がいい雰囲気で仲違いなく過ごせる」的なことだったから、自分の中では生まれてこの方成功したとは思えていないし、小さな成功があったかもしれないけど、子どもの頃からの私にとっての成功は完璧なもの過ぎてそこには目が向かなかったし、両親からも大して褒められこなかったから、自分の完璧の感覚の世界で1人でみんなに求められる自分を演じてきた。
でも、自分を軸に考えてきたときに自分のためにした成功体験は思いつかないし、何もできていないと感じる中で自分がやりたいことをやってもいいよって言われてもわからないし、できてない自分が自分の幸せを追い求めるようなことをしていいのか後ろめたさなような感情も出て、困り果ててしまったんだよな。
年を重ねるごとに自分の意見が求められる中でどんどん息苦しくなったんだよな。
最近ようやく整理しだして思うのは、習字や漢字みたいに深く探求していくのも好きだし、短期のアルバイトたくさんして幅広いことを知るのが好きだし、ヨガのようないろんな人と会話するのもすごい好き。
保育の人のことを深く知るために、脳科学や栄養、社会環境など知って、それを現場に即落とし込んでいけるのも好き。
っていうことには気づけた。
まだまだ、自己を確立している最中である。
年齢は気になるけど、今やっていることは今後生きていくうえで大切な土台になっていくだろうから、時間がかかっていいから自分が幸せになる方向を探そう。
幸せになっていいから。
もう十分頑張ったから。
誰のストレスも悩みも極力背負い込まなくていい。
今は自分をケアすることが最優先。
気を緩めるとすぐ他の人のこと考えてしまうから気を付けよう。
自分は幸せになる方向にやりたいことをやっていい。
私の人生だから。