自分魚拓

自分の気持ちをネットで検索しがちなので、ネットの海で誰かの何かしらのお役に立てればと思ってます。

くるしくて しにたくなった わたしへ

こういう時はある。

普通の時ならここには来れずに回復した後くらいに思い出してくるだろうに、よく落ちかけの時にこれたね。

 

なんだろ、頑張りすぎちゃったかな。

迷惑をかけないようにしすぎると気を張りすぎていつもより疲れちゃうし、結局大ポカしちゃうときもあるよね。

 

誰かに相談するのも気が引けちゃったり。

 

最近ようやく自分の特性がわかってきて、少しづつ気づいてあげれるようになって、どう対処するか切り替えるか、どういう心持でいくかなんとなくわかるようになって、日進月歩で少しづつ成長できているね。

 

ここまでくると劇的な改変はなくて、こける時もあるけど少しづつ経験値を積んでいって生きやすくなっていくしかないんだよね。

 

2018年秋から私は着実に成長している。

自分に向き合って少しづつ生きやすくなってる。

今回どんなことで悩んでいるか今の私にはわかってあげられないけど、今の私ならゆっくりでも乗り越えられる。

 

泣きたかったら泣けばいい。

やっと心から涙があふれるようになった。

苦しいことを一回紙に書けばいい。

相談相手が思いつくなら死ぬわけではないんだから一回聞いてもらってみてはどうだろうか。

 

私の好きが私を肯定してくれる時もあるのでMVを貼っておくよ。

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youtu.be

 

なにか気持ちをよくまとめられたブログでも貼ろうかと思ったけど、どれもその時の私が踏みとどまるため、次につなげるために嬉しかったことを書き留めるため、文字通り一生懸命書いたものなので、何かふらっと読んでみてほしい。

 

かける言葉が見つからないのだが、

鬱屈とした感情を抱えるのはそれだけ頑張ろうと生きようとしているための裏返しだと思う。

 

思いつめすぎると通常モードに戻るまでしんどい時間が長くなるので、

私が楽しいが第一で

肩の力を抜いて

あくまで他人は他人でできる限界があることを心に留めて

 

回復まで無理せず楽しく生きてください。

 

なんどもやるよ。きもちのふりかえり

rebornflat.hatenadiary.org

 

このブログめちゃくちゃ大切なことを言ってらっしゃる。

 

心を守るというのは端的に言えば「気持ちを受け止めてもらえた」と感じれることだと思う。

 

仲間や監督の前では気丈に振る舞い、ピッチャーに選ばれた仲間には頑張れよ!などと励ましているかもしれない。
だけど、家に帰ったら、そういう”大人の振る舞い”を脱ぎ捨てて、本当の気持ち、「選ばれなくて悔しかった」という気持ちを、
誰かに喋って、受け止めて欲しいのではないだろうか。

 

そうやって、悔しい気持ちを受け止めてもらえてこそはじめて子どもは現実の世界に自分を適応させていこうと思える。

 子どもの頃のひとつひとつの「受け止めてもらえた」って経験は何にも代えがたい大切なことだと思う。

大人にとっては小さなことでも、子どもにとっては人生の一大事件かもしれない。

子どもの頃は自分だけでは、気持ちが処理して受け止めにくいから、身近な親に話すことで自分の気持ちを一度託すことで、処理しようと最後の頑張りなんだと思う。

受け止めてもらったことで、自分でも気持ちをはじめて受け止められるのではないだろうか。

これが、話さなくなるのは、自立なのか諦めなのかでは全然違う。

 

 

社会的な正しさ、ではなく「子どもが抱えている気持ちを分かってあげる=共感」が現代社会には圧倒的に足りないし心の病になる様な子どもの親は、共感が圧倒的に足りない。

 

由美さんが愚痴を聴かないと、すごく怒りました。
でも、由美さんの愚痴は聴いてくれなかったそうです。
お母さんに不満や要求を言おうとすると、「お母さんはこんなに大変なのに、そんな事言わないでちょうだい!」と拒否されます。
由美さんのお母さんは、長年にわたって強い愛情飢餓を抱えている人です。
無意識のうちに由美さんに求めることで、愛情飢餓を満たそうとしていたのです。
(「怒り」「さびしさ」「悲しみ」は捨てられる! 古宮昇 すばる舎

 私じゃ。

愛情は他人からまかなえるほど簡単なものではないし、それはずっと応急処置を続けているような状況だ。

それに、搾取される方はどんどん苦しい。

子どもなら、それで存在価値を肯定されるとどうしようもなくなってしまう。

ヤングケアラーの記事を読んで、こどもは不条理に置かれてもそこしか社会がないから、そこで頑張るしかなくて頑張ってしまって、心が折れるか、非行に走るか、極端な選択しかできなくなってしまう。

私はライト目だとは思うけど、それでもしんどかった。

こんな風に過ごす子を少しでも減らしたいし、少しでも生きているのが楽しいなと思えるような人が増えるような環境を作りたい。

 

 

つまり、「気持ち(本音)を話す=相手(親)には受け止めてもらえない」というルールを持っていると、
学校でも職場でも、親との関係によって作られたルールが子どもを縛る。
「弱音や愚痴を言いあいながら人間は支えあっている」とは到底思えず、
本音を溜め込んでしまうし、弱さを見せない人間に他人は親近感を持たずに孤独を誘う。

 少しづつ、アルバイトから会社で働いてと社会に触れるようになると、これが如実に出てくる。

これは認知のゆがみを自分で取り払って、そのうえでそれを失敗しても続けながら、助けてくれる成功体験や、それを通じて信用できる人を作っていくしかないんだけど、これって書くより簡単なことじゃないし、認知のゆがみって自分の当たり前になっているから、まず何が違うのか気づくのにめちゃくちゃ時間かかるから、長い目で取り組んでいくしかないんだよね。

現在進行形だけど私もちょっとづつやってるよ。

 

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みおとしやすいこと

「家族を大切に思えない」。そんな私は人として何か欠けているのだろうか | HuffPost

 

初めて、人と家族に対する感覚が違うのではないか?という違和感を覚えたのは小学2、3年生の頃だった。何をきっかけにして喧嘩になったのかは覚えていないのだが、何かしらの言い合いを発端に、母から「どうせお母さんのことは世話係としか思っていないんでしょ!」と言われたとき、ふと思ったのだ。
生まれたときから当たり前に存在し、生活を共にしてきた母。では、家事や育児といった母親としての役割を切り離し、ひとりの人間として好きか嫌いか?というと、はっきり「好き」とは言えず、かといって「嫌い」とも特に思わない自分がそこにはいた。考えたことすらなかった。母は、母だ。それ以外のなんでもなくて、本当に私は母を世話係としか認識していないのではないか?そう考えたとき、自分の家族に対する感覚がちょっと変なのではないか?と思ったのだ。

 

 私が思ってたことを、まるっきり言葉にしてるやないかいと心から思いました。

愛とかそんなことより、家族という形をやるための私で、そんな中での母としてしか認識してなかった気がする。

母を一人の人間として、今捉えられているかと言われると正直自信をもって答えられない。

 

 

一度壊れてしまった家族との仲が、今後劇的に改善され、今更良好になるとは到底思えない。けれど、家族をテーマにした映画を見たり小説を読んだりする度に感銘を受けては馬鹿みたいに泣いたりはするから、不思議だ。

 家族に変化は期待していないけど、やっぱり心のどこかで満たされなかった気持ちとか憧れがあって、それをわかって受け止められると、そういった家族愛的なのに涙してしまうんだよな。

 

 

最も身近な他人であるはずの家族とのちょうどいい付き合い方を身につけてこなかったからじゃないだろうか。自分の気持ちを理解してもらう方法も、相手に近づく方法もわからないまま大人になってしまったから、私は人を大切にしながらそばにいることができないんじゃないのだろうか。
 
家族への感情がない。家族とうまく関わっていく方法がわからない。それは、私の欠点であるだけではなく、人と関わっていくうえでも大きなコンプレックスになっているのだ。

役としてはしっかりした言動ができるけど、いざ自分の欲求や意見を表現しようとするとわからない。

そういう練習をする家族とそんなことをしたことないし、距離感もわからないし、頼り方もわからないし、家族と障害があるのは後々響いてくるんだよね。

 

 

https://www.ncchd.go.jp/center/activity/covid19_kodomo/report/cxc05_coping20210525.pdf

 簡単な言葉で伝えてくれてるけど、それも大切なことばかりで当たり前なことなんだけど、案外忘れているんだよね。

 

ta-nishi.hatenablog.com

「どうして生まれてきたのか」というのをずっと考えてきた私にとっては納得のいく内容だった。

人間がこの世の中に産まれてくるのは自らの意志ではない。一方的に「産まされてくる」のである。であればこそ、その一方的な契約は自らの意志で完全に自由に、なんの痛みも伴わない形で破棄できるものでなくてはならない。それこそが「フェアな契約」というものではないだろうか。安楽死はそのための権利となり得る「極めて人道的な」制度なのである。

 

 

yashio.hatenablog.com

「被害感情が一種の気持ちよさを伴っていて、そこにハマると(頭が良い人でも)客観的な妥当性を無視して他者を攻撃し始めてしまう」みたいな機序があるのは、たくさんある人間のバグ(仕様)の一つなのかもしれない。
 陰謀論にハマりたくないしハマってほしくない、と心底願っているけれど、それには「どうしたらハマっていくのか」を考える必要があって、(そのうち考え方が変わるとしても)今の時点での「こうかしら」をまとめておく意味もあるかと思って。

自分がACだったことに気づいてから、被害者であるという意識が芽生えた。

その時、被害者であるというポジションが守られている居心地のいいものだと感じて、1年半くらい被害者であれる理由を探し続けてた。

あの期間が無駄ではなかったけど、振り返ってみると被害者であるというのは自分で気づかない限り脱するのがとても難しい。

かわいそうな自分は正直いとおしくてずっと続けていたくなる。

敵や理由は難癖付ければなんとでもつくれる。

客観的とはよく聞くけど、いつだってできているかは半信半疑だ。

 

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

その親はだれにでも「お金を貸して」と言っているでしょうか。あなたが相手だから言ってみた、言えた、ということはあるのではないでしょうか。「敷居が低くて話しやすい」「とりつくしまもなく無視される心配がなさそう」……こういった心理が働いて、ちょっと無茶かなと思えることでも話してしまう経験はだれでもあるはずですね。逆に、「何でも相談してください」と言われてもとうてい話す気になれない。最初から拒絶されている感じがする、ということも。〔…中略…〕

 

 そうとらえるなら、「お金を貸して」「忙しいのでうちの娘を家まで迎えにきて」……といった言動について、「それができる、できない」を言う前に、まずは、「なんでそんなことを私に話したのだろう」と思ってみられるはず。そして、普通なら言いにくいことをつたえる事情や背景を、そのように言う親と共に考えることができれば、どこに問題(親が解決したいと思っていることがら)があるか、わかってくるのではないでしょうか。子育て家庭の暮らしのあちこちにころがっている困難を、親や保護者が「これが問題」と自分たちがつかみとれるよう、そうやって手助けをする「場所」に支援者はいなければなりません。「身近な他者」と呼ばれているそうしたポジションに保育所、保育者がいられるようにすることは、子育ての共同をすすめるうえで重要だと思います。「お金を貸して」等々と言われることは、問題がひそんでいながらそれが表に出てこないよりもずっとよいことであり、共同して問題を解決してゆけるための一つの入口なのです。(中西p.51〜52、強調は引用者)

 

 つい、表面の言動だけで一言言ってしまうけど、そうじゃないんだよね。

改めて、子育てって家族だけでするのは難しいし、めちゃ大変なのは日々実感している。

だから、支援をしていける立場になりたい。

生きているの楽しいよねって私も含めてなれるような環境を少しでも作っていきたい。

 

私に過度ないじりをするのも、私が最初に距離感を縮めすぎてしまったことに問題があるのはわかっているけど、それでもあそこまでいうのは、なにか日頃発散できないことがあるから自分より誰かを下にして言わなければ済まないことがあるのかなとか思ったり、自分の改善はもちろんだけど、相手のことももっと考えられるような観察力を養っていきたいな。

観察力は見る視点をたくさん持つことだと思うので、その時見たものを様々な情報量で分析できるように、情報を入れていくことは大切だと改めて思った。

まえときょりをおいてかんがえられるようになった

https://anond.hatelabo.jp/20210522002724

自分自身に対して、自分の傷を開いて見せつけるような行いだった。

 

私は何もかもを憎んでいた。何のためにも動きたくなかった。

自分のために、歯医者に行ったり、部屋を片付けたり、体重を管理したり、見た目に気を使ったり、病院に行ったり、

そんなことをしたら、まるで自分が傷ついていないみたいで嫌だった。

 

自分を救えるのは自分だけだなんてこと、言われなくたってわかっていた。

それでもそれをするのは嫌だからしていなかった。傷つき続けることを自ら選択していた。

 

セルフネグレクトを今まさにしている人に、「自分を救えるのは自分だけだよ」といったところで、

たぶん彼らはただ反発するだけだと思う。

 

 

これを読んで全部共感したわけではない。

だけど、一昔前の私と被る部分があってわかるところは多かった。

傷ついているけど自分の大切さがわからないし、自分のためにすると今の自分を肯定?するみたいでできなかった。

好きじゃない自分に何か投資することはできなかった。

化粧とか服とか自分に物をあてがうことに抵抗があった。

でも、好きなことはやれてたなと思う、旅行とかライブとか。

 

今でもうまく言語化できないけど、自分を大切に思えないのは生きていくうえで致命的だし、生きるモチベーションとかなくてしょうがないと思う。

 

こういうこと真面目に書こうとするとまだ、心が重くなってくる。

何が言いたかったというと、自分の昔を少しは客観的に見れるようになったということ。

 

 

こころ

Twitterで心の病気になって200万円総額かかりながら、生きやすくなってるっていう話をしてた。

私は働かない期間や非正規である今を考えると損失的には200万くらいいくかもしれないが、今のところ1年半くらいかけて「しにたい」はほぼ薄れた。

 

ツイ主さんは、幼い頃からの積み重ねでこんなお金かかったって書いてたけど、つくづくそうだなって思う。

 

見て見ぬふりしてやり通せた気がすることは、実は案外、心に蓄積されている。

 

お金や月日で治るならば、許容範囲内で取り組んだ方が生きていく上で重荷が減って、更にミルフィーユ状に苦しみが重ならなくていいと思う。

 

人よりお金を使ったから、人より立ち止まってる時間がかかったからとか気にすることじゃないと思う。

それで、自分が生きやすくなったらそれでいい。

評価との向き合い方

逆に「なんでこれが評価されてるんだろう?」と感じる作品については、周りに聞くようにしています。もしかしたら自分の感覚が間違っているかもしれないと思うので。そんな風に、まだ自分の読み方を変えようとする気持ちにもあるんでるよね。

 

尾崎さんのヴィレバンのインタビュー。

ふと目にして読んだだけだったけど、心にズサッと刺さった。

 

人から褒められると「あの人はおかしい」とまでは言わないが、私の基準が正しいから、あの人の言ってることは受け止められないと思ってた。

でも、よくよく考えたら自分に自信がないのに、どうして自分の基準が正しいと言い切れるのだろうか。

相手の方が私より少なからず客観的に見れているだろうし、相手の方が経験値や性格的なことから的を得たことを言ってるかもしれない。

 

そう思うと、そこまで自分の考えに固執する理由がなくなった。

 

なんだ、こんなもんか笑

 

受け取り上手になる

題名通り。

あげることは案外慣れてるんだけど、受け取るのはほんと下手くそ。

でも、あげる時の自分の気持ちって「相手がいかに喜んでくれるか」ってたくさん考えてる。

だから、相手も少なからず私のことを考えてやってくれたと思えば、それは素直に嬉しく受け取るべきだ。

 

さいコウチクちゅう

自分の中で説き伏せたい?、思い通りにさせてしまいたいという考えと、

自分の経験を通じてその子を尊重して、自己決定する環境をつくりたいという考えがせめぎ合ってる。

 

今、このバランスは自分の余裕が大きく影響している。

余裕がある時は自由型でできてるけど、どうしてもしんどいと視野が狭くなって、先を考えずに口を出したり先回りしてしまったりする。

 

あとは、自由保育についていまいちわかってるようでわかってないことが沢山あって、どうしたら最善なのかぼんやりしてる。

経験値で補っていくものではあるけど、もうちょっと言語化できるといいな。

 

何より自分も楽しんでいれる瞬間が少しでも多いことが大事。