他人軸の人、自分軸の人みたいな考えを知ってから、「相手に期待しない」というのはどういうことなのか頭の片隅でいつも考えながら生活してきた。
最近自分の中で腑に落ちる経験や思考方法ができたので忘れないように書き留めておく。
昔から私は特に両親に私の話を聞いてほしかった。
でも、両親はいつも自分の話ばかり。
いつか聞き役に回っていれば自分のターンが来ると思って、それに気づいてくれるのをずっと待っていた。
最近母に勇気を振り絞って言いたかったことを伝えた。
私は話し始めた途端泣いてしまうほどだった。
それでも、母は自分の言いたいことをすぐ始めた。
その時にこの人は一生こんな感じだと悟った。
この人から生まれ育って20年以上の月日を経てやっと確信に変わった。
今後、私がどういう気持ちでどういうコミュニケーションをとりたいか話したら変わるかもしれないが、ここに私が費やす必要性を感じられなかった。
今時間や労力を費やすのはここではなく、もっと私の将来の糧になるところに費やすべきだと思った。
今まで家族が円滑になるように母と父の間に入ったりしてきたが、夫婦間は一向に変わる気配はなく、母父方のどちらの祖父母も自分の話ばかりで会話をしても価値観を押し付けられているようで疲れる。
最近の一件が決定打となり、今までの思い出を思い返せば「こうなるかもしれないから我慢しよう・頑張ろう」と家族に期待してしてきたことは、その場その場の一瞬で消費されていただけで私だけすり減っていただけだった。
幼い時から大人びて我慢をしたり頑張ってもフォローをされた記憶はないし、相談をしても私の感情を聞かれることもなく、自分の経験談を語りだすだけ。
今思い返せば、幼少期からこんな状況だったので感想文は苦手だし、中学生の時の部活で自省をする際も自分を見る観点が育ってない分、毎回同じようなことを書いて成長が乏しかった。
最近になってやっと自分の意見を考え、伝えることができるようになった。
家庭の経験から自分は何か買って出てやらないと必要性を感じでもらえない存在だと思っていたけど、そうではないことに最近気づけた。
気づく前までは友人間でもめんどくさい仕事を買って出て、誰かが助けてくれるのを期待していたがそんなことはなく、毎回1人でストレスを抱えるだけ。
そんな経験から無駄に買って出たところで消費されることがほとんどだし、期待して落胆する負の感情の方が重いし、周囲にあてなくてもいい感情をぶつけるようになるから期待するのはやめようと思った。
なにか買って出ることは悪いことではないが、今の私ではうまく人に仕事を分配できないのでまずはうまく回してくれる人の元で方法を学びながらやるのがちょうどいいと判断している。
このままだと消費される人生であると気づけて良かった。
私の人生を半歩ずつでいいから歩んでいこう。
半歩なら踏み外しそうになった時に戻れるし、半歩ならいろんな方向に向けれるから。
ネトフリオリジナルのクイアイの中で「できなくてもできるふりをしていればいい」という言葉が出てきて、私に足りないのはこういう度胸とか自分を信じる力だなと思い、心の片隅に置いておいた。