自分魚拓

自分の気持ちをネットで検索しがちなので、ネットの海で誰かの何かしらのお役に立てればと思ってます。

不完全を受け止める

これまでどこかまですればゴールがあると思っていたけど、どんなことであれゴールがないんだということに気づいた。

 

死にたいがために、人生を短くかくしか考えることができなかったから、長期的に積み立てて考えていくということが身につかなかったのだろうか。

 

自分の不完全さを受け止めたくなかった。

きちんとできて物分かりのいい、なんでもできる人になりたかった。

これが正解だと思って、家庭でも外でも演じてきたけど24年たってもゴールは来ないし、生きることが長引くほど心に空虚感が増す。

生きるほど、問題は多く複雑になるし、環境も変わる。

いい子の定義は増える一方だし、周囲が自己を確立する中で空気をひたすら掴むようなことをしてきた。

 

幼稚園からの幼馴染にさえ、虚勢を張ってしまう。

友人にもしっかりした私を演じてしまうことがある。

そうじゃなくちゃ、私には価値がないし受け止められないと思うし、自分自身もそれを抜いた私に自信がなかった。

 

これは今まで自分のライフラインである家庭で生き抜くために仕方ないことだったと受け止められている。

仕方のないことだったのだ。

だから、過去は受け止めて、今に目を向けて昔を理由に立ちすくんでいたらもったいない。

 

死にたい気持ちは心の底に薄く張り付いているような気がする。

張り付かれているような気もするけど、自分がその不安感を手放したくない気もする。

 

こうじゃなくちゃいけないことはないというのを最近いろんなところで感じる。

私が今まで課してきた理想でなくていけないことはない。

私は生きているだけで充分だし、価値があるないに関わらずそんざいして

 

いるだけでいいって書こうと思ったけど、心の底から思えなくて半泣きになって指が止まった。

 

自分で向き合い続ける限界が来ている気がする。

一度自助グループとかに行った方がいいのかなとも思う。

 

最近弟を見ていて、私が同じ年の時との家庭の環境が全然違うなと思った。

私の時は妹のことで母がバタバタしていた。

母も更年期差し掛かりもあって、すごいうるさかった。

相談したいことがあっても話せる雰囲気ではなかったし、話したくなかった。

 

今は母も落ち着いて、家庭にはいろいろやって落ち着いた妹がいる。

母を助ける人が一人増えているし、私だけが頑張らなくてもいい環境になっている。

 

しんどかったな。

あの時そこまで気づいてなかったけど、思春期も入っているのに家庭がぎくしゃくして、受け止めてもらえることがほとんどなくて、何をしても否定されるような感じだったし、それでも家庭で手伝いや気遣いしなきゃいけなくてしんどかったな。

 

 

話が大幅にそれたけど、これまでの色々含めてよく生き切ったサバイバーだし、もう自分の人生を生きるべき。

 

上手くいかない理由をずっと成立させるために過去のことを引き合いに出すのは原因論だ。

 

こういう過去があったから、将来どうなりたいかその目的のために考えにシフトしきたいな。

 

保育の仕事も無理だと思った。

観察力も乏しいし、つい感情的になったり、楽しむことができないなどと色々できないことに押しつぶされそうだった。

でも、最初から完璧にできないし、子供だってそれは同じだ。

それに、勉強すること自体は楽しいし、向き不向きを考える前に楽しいと思えることがあるならとりあえず継続していくべきだと思った。

 

育児だって保育だってみんないろんな経験を積んで見解が増えたり、適切な対応例が増えていく。

もう少し、仕事も長期スパンで考えていこう。