自分魚拓

自分の気持ちをネットで検索しがちなので、ネットの海で誰かの何かしらのお役に立てればと思ってます。

みおとしやすいこと

「家族を大切に思えない」。そんな私は人として何か欠けているのだろうか | HuffPost

 

初めて、人と家族に対する感覚が違うのではないか?という違和感を覚えたのは小学2、3年生の頃だった。何をきっかけにして喧嘩になったのかは覚えていないのだが、何かしらの言い合いを発端に、母から「どうせお母さんのことは世話係としか思っていないんでしょ!」と言われたとき、ふと思ったのだ。
生まれたときから当たり前に存在し、生活を共にしてきた母。では、家事や育児といった母親としての役割を切り離し、ひとりの人間として好きか嫌いか?というと、はっきり「好き」とは言えず、かといって「嫌い」とも特に思わない自分がそこにはいた。考えたことすらなかった。母は、母だ。それ以外のなんでもなくて、本当に私は母を世話係としか認識していないのではないか?そう考えたとき、自分の家族に対する感覚がちょっと変なのではないか?と思ったのだ。

 

 私が思ってたことを、まるっきり言葉にしてるやないかいと心から思いました。

愛とかそんなことより、家族という形をやるための私で、そんな中での母としてしか認識してなかった気がする。

母を一人の人間として、今捉えられているかと言われると正直自信をもって答えられない。

 

 

一度壊れてしまった家族との仲が、今後劇的に改善され、今更良好になるとは到底思えない。けれど、家族をテーマにした映画を見たり小説を読んだりする度に感銘を受けては馬鹿みたいに泣いたりはするから、不思議だ。

 家族に変化は期待していないけど、やっぱり心のどこかで満たされなかった気持ちとか憧れがあって、それをわかって受け止められると、そういった家族愛的なのに涙してしまうんだよな。

 

 

最も身近な他人であるはずの家族とのちょうどいい付き合い方を身につけてこなかったからじゃないだろうか。自分の気持ちを理解してもらう方法も、相手に近づく方法もわからないまま大人になってしまったから、私は人を大切にしながらそばにいることができないんじゃないのだろうか。
 
家族への感情がない。家族とうまく関わっていく方法がわからない。それは、私の欠点であるだけではなく、人と関わっていくうえでも大きなコンプレックスになっているのだ。

役としてはしっかりした言動ができるけど、いざ自分の欲求や意見を表現しようとするとわからない。

そういう練習をする家族とそんなことをしたことないし、距離感もわからないし、頼り方もわからないし、家族と障害があるのは後々響いてくるんだよね。

 

 

https://www.ncchd.go.jp/center/activity/covid19_kodomo/report/cxc05_coping20210525.pdf

 簡単な言葉で伝えてくれてるけど、それも大切なことばかりで当たり前なことなんだけど、案外忘れているんだよね。

 

ta-nishi.hatenablog.com

「どうして生まれてきたのか」というのをずっと考えてきた私にとっては納得のいく内容だった。

人間がこの世の中に産まれてくるのは自らの意志ではない。一方的に「産まされてくる」のである。であればこそ、その一方的な契約は自らの意志で完全に自由に、なんの痛みも伴わない形で破棄できるものでなくてはならない。それこそが「フェアな契約」というものではないだろうか。安楽死はそのための権利となり得る「極めて人道的な」制度なのである。

 

 

yashio.hatenablog.com

「被害感情が一種の気持ちよさを伴っていて、そこにハマると(頭が良い人でも)客観的な妥当性を無視して他者を攻撃し始めてしまう」みたいな機序があるのは、たくさんある人間のバグ(仕様)の一つなのかもしれない。
 陰謀論にハマりたくないしハマってほしくない、と心底願っているけれど、それには「どうしたらハマっていくのか」を考える必要があって、(そのうち考え方が変わるとしても)今の時点での「こうかしら」をまとめておく意味もあるかと思って。

自分がACだったことに気づいてから、被害者であるという意識が芽生えた。

その時、被害者であるというポジションが守られている居心地のいいものだと感じて、1年半くらい被害者であれる理由を探し続けてた。

あの期間が無駄ではなかったけど、振り返ってみると被害者であるというのは自分で気づかない限り脱するのがとても難しい。

かわいそうな自分は正直いとおしくてずっと続けていたくなる。

敵や理由は難癖付ければなんとでもつくれる。

客観的とはよく聞くけど、いつだってできているかは半信半疑だ。

 

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

その親はだれにでも「お金を貸して」と言っているでしょうか。あなたが相手だから言ってみた、言えた、ということはあるのではないでしょうか。「敷居が低くて話しやすい」「とりつくしまもなく無視される心配がなさそう」……こういった心理が働いて、ちょっと無茶かなと思えることでも話してしまう経験はだれでもあるはずですね。逆に、「何でも相談してください」と言われてもとうてい話す気になれない。最初から拒絶されている感じがする、ということも。〔…中略…〕

 

 そうとらえるなら、「お金を貸して」「忙しいのでうちの娘を家まで迎えにきて」……といった言動について、「それができる、できない」を言う前に、まずは、「なんでそんなことを私に話したのだろう」と思ってみられるはず。そして、普通なら言いにくいことをつたえる事情や背景を、そのように言う親と共に考えることができれば、どこに問題(親が解決したいと思っていることがら)があるか、わかってくるのではないでしょうか。子育て家庭の暮らしのあちこちにころがっている困難を、親や保護者が「これが問題」と自分たちがつかみとれるよう、そうやって手助けをする「場所」に支援者はいなければなりません。「身近な他者」と呼ばれているそうしたポジションに保育所、保育者がいられるようにすることは、子育ての共同をすすめるうえで重要だと思います。「お金を貸して」等々と言われることは、問題がひそんでいながらそれが表に出てこないよりもずっとよいことであり、共同して問題を解決してゆけるための一つの入口なのです。(中西p.51〜52、強調は引用者)

 

 つい、表面の言動だけで一言言ってしまうけど、そうじゃないんだよね。

改めて、子育てって家族だけでするのは難しいし、めちゃ大変なのは日々実感している。

だから、支援をしていける立場になりたい。

生きているの楽しいよねって私も含めてなれるような環境を少しでも作っていきたい。

 

私に過度ないじりをするのも、私が最初に距離感を縮めすぎてしまったことに問題があるのはわかっているけど、それでもあそこまでいうのは、なにか日頃発散できないことがあるから自分より誰かを下にして言わなければ済まないことがあるのかなとか思ったり、自分の改善はもちろんだけど、相手のことももっと考えられるような観察力を養っていきたいな。

観察力は見る視点をたくさん持つことだと思うので、その時見たものを様々な情報量で分析できるように、情報を入れていくことは大切だと改めて思った。